佐藤靖子

こんにちは!

ブランドプロデューサー/MAスペシャリストの
佐藤靖子です。

「My Story」では、私のこれまでの軌跡をご紹介していこうと思います。

このサイトの「ABOUT ME」でも自己紹介は書いているんだけれど、
そちらは、「起業を目指す人」向けの内容で。

こちらはもっとディープな、
私って人がどうやってこういう女になったのか、というようなことを
さらけ出して書いてみようかと思うのです。

というのも、
なぜ私が「Trust Branding College」なるものをスタートさせたのかとか

なぜそれほど「時間と場所に囚われない生き方がしたいのか」とか
「自由、自立」と言っているのかとか、

そのビジョンが伝わるかもしれない、と思うから。

かなり長いので、興味があったら読んでみてください。

幼少期

「なにも喋らない子」だった幼稚園時代の年少の写真。誕生日に先生が作ってくれた栞。「お誕生日のおもいで おうちの方が記入してあげてください」の欄が空白。当時の環境を物語る。

国家公務員の父、専業主婦の母のもと、兄と二人兄妹の長女として生まれました。

小さい頃の自分の写真を見ると、幼稚園にあがるくらいまでは、円満の笑顔。
めちゃくちゃお転婆、木登り大好き、お絵描き大好き、本が大好き。そんな子供でした。

お父さん子で、性格も、思考も、父によく似ていると思います。
父からは帽子のお洒落を教えてもらい、小さい頃から自分のお気に入りの帽子をひたすら被っていました。

ところが、物心ついてからは、「静か、引っ込み思案、人見知り、友達作るの苦手、ひとり遊び大好き」で、幼稚園の頃は「喋らない、変わった子」に。

そう、問題のある子、だったんですね。

子どもの頃は中学生になるまで、私は身体が弱くて、
一度肺炎で死にかけたことがありました。

大きな扁桃腺持ちで、毎年2回、40度以上の高熱を出して学校を長期で休む、
そんな虚弱児で、喋らない、「特別な子」だったんです。

当時、母は
「肺炎で長期入院してたから、幼稚園に戻ったときにお友達はもうグループができていて
きっとあなたは仲間に入っていけなかったのよ」

と言っていて、私もそう信じて大人になりましたが、
親と同じ年齢になって、気が付いたのでした。

わたしが喋れなかったのは、肺炎のせいではない。
お母さん、あなたの顔色を見ながら、生きていたからだよ。

どこで地雷を踏むかわからないから、何をどう喋ったらいいか、わからなかったんだ。

だんだん母の症状はひどくなって
どうしようもなくなって病院に相談したのは、私が40代になってから。
母は、精神疾患であることがわかりました。

ケアラーとしての半生

そんなこんなで、
私は『母の代わり』という役割を担って生きざるを得ない半生でした。

父、兄は男で、
さらに母は、うつ病で寝込むというタイプの精神疾患ではなく、働きにも出ていたし、
友達とも電話したり、お茶をしたり、一見普通の奥さん、という印象だったと思います。

ですが、家庭の中では
女であるというだけのたった一つの理由で、私は母の役割を担わされたのでした。

友人には「よくグレなかったねぇ」と言われましたが、
グレる暇なんてなかった、というか、
毎日生きるために精一杯だった、といったほうが近いかもしれません。
あとは、根っからの性格は父に似て楽天家であること。

母のことで精神科に相談に行ったとき、
「自分にも母親と同じ血が流れている」と怖くなり
血液検査から心理テストまで全部やりましたが、
「不思議なくらい、あなたまったく異常なし」と言われてほっとしました。

(最近、父に「あの頃」のことを話題にしたら「全部忘れちゃった。嫌なことは全部、忘れるに限るのだよ」と言っていました笑 能天気。娘が辛い思いしてたのに笑)

そして、当時はインターネットもないから
自分がおかれている立場が「なんかおかしい」と思っていても、
比較することができないし、

周りの親戚や大人たちは
「親孝行でいい子だねぇ」とはいうものの

「子供なんだから、子供らしく生きていい」
なんて言ってくれる大人は、誰一人いませんでした。

家庭という閉ざされた環境の中で、ただ一人、「哲学をする」という女の子に育っていったのです。

なぜだろう?
人生って、なんなんだろう?

小学生の頃から、そんなこと考えながら、
読書したり。

私のような人のことを「ケアラー」ということを、最近知りました。
今、同じ環境で戦ってる若者たち、相当辛いだろうね、って思わず特集あると見入っちゃうのでした。

映画、アート、本が大好きだった

そんな、先が見えない人生でも、
私は映画、アート、本が大好きで、深夜に放送される50年代のハリウッド映画に夢中になって徹夜したり、オノヨーコやアンディ・ウォホールといった前衛芸術に傾倒していきました。

親友と呼べる友達はいて、家族の悩み事は彼女だけには打ち上けてこれたことも、
私がまっすぐ生きてこれた原因の一つです。
中学時代に、こんな家族の話は聞く方も重たいですからね笑

他の物はめったに買ってくれない父は、本だけは、私がリストアップして紙を渡すと、何冊でも買ってきてくれました。

14歳のときにはすでに、日本の小説はもちろんフランスやドイツ、ロシア文学やフランスの思想家であるボーヴォワールの「第二の性」という哲学書を夢中になって貪り読む。そんな中学生でした。

第二の性、というのは「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」という名言を残した、男女同権を謳った哲学書です。
私はウーマンリブではないし、大好きな相方には料理をしたくなるフツーの女ですが、
「女なんだからやって」と言われようもんなら、私の哲学トークが始まります(笑)。

私は環境から、「なぜ女だからと家事を押し付けられるの」「兄には門限がないのに、なぜ女だからと門限があるのか」と、自分がやりたいことが山ほどあるのにそれを「家族」という他人が奪う理不尽さに憤り、答えを探していたのです。

女も自由に生きていい、というボーヴォワールの言葉は
14歳の少女の心にズドンと響き、
さらにオノヨーコという世界に名を轟かせた「自由に、自分らしく生きる女」は
私の憧れになりました。

私が自分でいられるのは、映画、アート、本に触れているときでした。
私には、無限の可能性があると信じることができたし、早くこの環境から逃げるには、働いて稼がなくちゃと思っていました。

オノヨーコみたいにかっこいい生き方をしたい。
母親みたいに、子供に依存して人生を奪う人間になんてなるものか。

英語が話せるようになりたい。
クリエイティブな世界で生きてみたい。

私はそうやって、自分の未来に夢を抱きながら現実をやり過ごしていたのかもしれません。

大学は芸大を希望。だけど・・・

当然のように、大学は芸術系を希望しました。

表現したいことが山ほどあって、アイデアが噴き出して「インスピレーション・アート」というイベントを開いたこともありました。

集まってくれる人に、コーヒー豆一粒ずつ持ち寄ってもらい、
その豆でコーヒーを丁寧にドリップし、飲む。

それだけのことなんだけれど、
これ、オノヨーコの前衛芸術に完全に影響されたイベントでしたが、
参加してくれた人たちには「みんなの愛がほんわり集まったような時間と空間だった」
と好評で、さらに自己表現、将来へ進むべき道が自分の中で定まっていきました。

武蔵野美術大学や、日本大学芸術学部の資料を取り寄せ、未来に胸を膨らませ
「私は、これから自分の人生を、アートの世界で切り開くんだ」

そんな腹の底から沸き起こる感覚。

ところが両親から「食えないものになるために、高い学費を払って大学までやるつもりはない」と言われてしまいました。

当時は、情報収集としては本か身近にいた美術教師くらいしかいなく、
中学時代の美術の先生に相談すると

「やめておけ。美大に行ったって食べていけるほど甘い世界ではない」と言われたのでした。

起業してビジネスを学んだ今は、
「リサーチ対象を間違えた」ただそれだけです。

たしかに、今思えば私がやりたかったアートなんて、食べていけないだろうし笑
大人の対応としてはそれが正解だったのかもしれないけれど、
結構、苦労したんですよ、WEBデザインや広告デザインの仕事をしてから
「美大卒じゃない」ということが。

美大さえ出ていれば、クリエイティブ系の仕事をする上でかなりのアドバンテージになりますからね。

高校は、千葉県の御三家と言われる規則の厳しい歴史ある私立の女子高に通っていて、
アルバイト禁止(バレたら停学処分)という環境だったので、自分でお金を貯めて美大進学予備校に通うお金もなく、当然美大進学のお金もなく。

父は国家公務員だったから、奨学金も無理。

もうね、どーでもいいよ、好きなことできないなら。
どこ行ったって同じでしょ。

アート以外にやりたいことないんだから、潰しのきく経営とか経済とか、その辺いっときゃいいでしょ。

そんな風に、自暴自棄になっていました。

もう、気持ちは風船のようにはれ上がっていて、ちょっとでも刺激を与えられるようなものなら、いつでもパン!と弾けて消えてしまうような、
そんな切羽詰まった心境でした。

家事、勉強、学校の繰り返しの日々で、普通の高校生とは無縁の生活。
しかも受験勉強さえままならない、そんな環境で、

明治大学の経営学部を第一志望に受験しましたが敢え無く不合格。

合格したのは滑り止めの亜細亜大学経済学部と昭和女子大でした。

「女ばかりの環境はもうたくさん」

と、亜細亜大学を選択しました。

亜細亜大学を受けたのは、当時交際していた東京大学の社会学部卒の彼が

「今なら、亜細亜大学を受けろよ。なぜって、衛藤瀋吉が学長してるから。君の4年間、彼から国際論を学べるのはかなりいいと思うぜ」

そう言われたからです。

お嬢様が通う高校のクラスメートからは「どこそれ、聞いたことない。辞めておきなよ」と言われましたが、「衛藤瀋吉」という名前が頭から離れず、私は亜細亜大学を選びました。

この選択が、私の人生を大きく変えることになったのです。

人生を変えた衛藤瀋吉先生

亜細亜大学は、当時衛藤瀋吉学長が起こした「国際ムーブメント」真っ盛りで、彼の国際関係概論という講義は、最高に心揺さぶられるものでした。

「君たち、世界に出ろ。狭い世界に留まるな」

衛藤学長がスタートした海外交換留学プログラムは、100万円で半年間、アメリカに留学できるというもの。

大学内には派閥があり、次期学長を狙う反対勢力が衛藤学長の留学制度を潰そうとしていましたが、

「君たちの人生が、たった6ヵ月で変わることを保証する」

そう言い続け、戦っていらっしゃいました。

「こんな機会は君たちにはめったにないチャンスなんだよ。社会人になって仕事のためにいく留学と、学生時代に仲間と一緒にいく留学は、全然違うものなんだ。

なにかひとつだけでもいいから、掴んでこい。

もし、どうしても留学資金がないというなら、俺が出してやる。
ただ、君の情熱を俺にプレゼンしてみろ」

そんなことを仰っていました。

留学をきっかけにパイロットになった人、アメリカでジャズ・ミュージシャンになった人、色んなエピソードも聞く機会があり、
私はそれまでの人生を大きく変えるチャンスがここにある、そう思いました。

ですが、私は最後まで参加を迷っていました。
なぜなら、母親の存在が重くのしかかっていたからです。

行きたい気持ちに傾くと母親に依存される、という日々が続いて
もう、色々面倒で自暴自棄になって、「私、もういいや。行かない」と言っていたのです。

そんなとき、父が私を書斎に呼び、
書棚にある封筒を指さして、

「君が行きたいと決意したときのために、いつでもここに100万円用意してあるからね」

そう言ってくれたのです。

私にとって、その100万円はずしりと重く、
「行くからには、この100万円以上の価値を、絶対に受け取ってくる」

そう決意したのでした。

当時、仲の良かった女子友達は5人。
全員留学を希望していて、私含め3人が同じ留学先になりました。

留学期間中におとずれる長期のクリスマス休暇は、学生は全員寮を出されることになり、
アメリカ人学生ももれなく実家に帰省しそれぞれの家族で休暇を過ごします。

その間、日本人留学生は「アメリカ国内を旅する」というのが習わしで、
私たち5人も、「どこにいこうか」とよく話をしていました。

そんな中、私は彼女たちにこんな質問を投げかけました。

「もし、ルームメイトが自宅に招いてくれたらどうする?みんなと旅、できなくなるけど」

なぜこんな質問をしたかというと、
私の中で、もう目標が決まっていたからです。

クリスマス休暇は友達と旅もして思い出づくりもしたいけれど、私は新しい経験をしたい。
新しい文化、アメリカ人友人家族と過ごすクリスマス。
旅ではなく、今しか経験できないリアルなアメリカ人の生活を体験してみたい。

そして、「クリスマス休暇をルームメイトに誘われたら、絶対にYESと言おう」と決めていました。

「そうだね、もしそうなったら、貴重な経験だしいいんじゃない?」

その答えを全員から聞いて、ほっとしたのでした。

出会い

アメリカのエレンズバーグという小さな町にある、セントラルワシントン州立大学に留学した私は、とにかく「自由」を満喫しました。

母親から逃げられる。

私にとって、外国は生まれて初めての経験だったし、親から離れて自由になれるのも初めて。
見るもの、知るもの、すべてがキラキラと眩しく、
生きていることだけで最高に楽しい、朝目覚めるのが待ち遠しい、もったいなくて寝たくない!

講義はどれもとても刺激的で、知的好奇心をくすぐるものばかり。
広大で緑がいっぱいのキャンパスの中をマウンテンバイクで教室に通う日々。
ああ、私はなんて幸せなんだろう、生きてるだけで幸せってこういうことか、
そう感じました。

同じ寮に住んだ大学の仲間は、今でも親友です。
頻繁に会うことはないけれど、絶対的な信頼があって、それぞれが自立心とプライドとユーモアを持ち生きている、大切な人たち。

そして、言葉を交わさなくても通じあえるソウルメイトのような存在の、
アメリカ人の2つ年下の学生と恋に落ちました。

ボーヴォワールの第二の性を中学生で読んだ、なんていうちょっと変わった女を面白がって愛してくれる男性は、日本にはそうそういないというのもなんとなく自覚してもいたし。
(彼もそうとうユニークな人でした)

彼から教わったことは

「Anything is possible」

です。

彼はいつも私にそう言ってくれました。
そしてルームメイトのTeresaは「You can do it!」「Good Job, Yasuko!」
そういつも言葉をかけてくれました。

私は母の依存に苦しんだ人生でしたが、
友人には恵まれた、と思います。

自己肯定感が低かった私は、
アメリカ人の友人や留学仲間と過ごす中で、少しずつ自信とプライドを取り戻していったのです。

友人との決別

やがて冬になり、クリスマス休暇が近くなってきました。

そのころ、ルームメイトとはとても仲が良くなっていて、ルームメイトと彼の二人から、クリスマス休暇に彼らの自宅で過ごす提案をされました。

当然、答えはYESです。

大切な友人の家族に会うのもワクワクしたし、彼の両親と一緒に暮らすことも緊張はしたけれど、最高に嬉しかったです。

そして、日本人の友達に、一緒に旅はできなくなったことを伝えました。

今でも親友であるRieちゃんからは「うん、やっこが決めたんなら、いいと思うよ」と言ってもらいましたが、
もう一人の友人の顔色が変わりました。

「へえ、友達じゃなくて、男、取るんだ・・・」

私は心の中で、「だから前もって確認していたじゃないの」と思いましたが、何を言ったところで彼女は「気に入らない」そんな感じでした。

そして、彼女は他の留学仲間に私を裏切り者と仕立てて噂をし関係は最悪に。

でも、その頃私は、もう人の顔色を見ながら生きることと決別していました。
勝手に噂を流せばいい。真実はひとつしかないのだから。
人生の舵は、自分で取る。
私の生い立ちと、アメリカでの責任ある自由の魅力と重なって、私の哲学は生まれました。

私にとっての留学資金100万円の重みは、彼女の重みとは全く違う。
あの日、父親が「君のためにいつでもここにあるんだよ」と言ってくれた100万円。

それまでの人生を抜け出すために、私は何を言われても自分が選んだほうをいく。

結果、その子とは縁が切れました。
胸はちくりと痛みましたが、自分の感覚を大事にしたんです。
自分の本当の気持ちを押し殺して、作り笑顔で「本当は彼やルームメイトと過ごしたかった」という気持ちで旅をしても何の意味もない。

今は、なぜ彼女がそういうことを言ったのか、理解できます。

でも私が取った選択は間違っていなかった、と大人になった今、自分に「ブラボー!」と言ってあげたい。

クリスマス休暇の間、私は初めてアメリカ人の日常を垣間見ることができ、
愛に溢れたクリスマスを経験することができました。

結果、卒業時にはクラス代表で卒業スピーチをするまでになり、
先生からは「この留学で、一番めざましく英語力が伸びたのは、あなたよ」と言ってもらえました。

私が書いた英語の創作エッセイは、その後に続く後輩たちの講義で使われているそうです。

今ではビジネスやマーケティングの情報は海外のマーケターたちから学び
英語力がビジネスに生きています。

全部自分が決めている。
他人のために生きるか、自分のために生きるか。

自分軸、というものがいかに自分を助けるかということを学びました。

婚約、そして別れ

日本に帰りたくない・・・

帰国が迫っていたころ、私はかなり落ち込んでいました。
また、ケアラーとしての日々が待っている。

自分の人生を、母親に乗っ取られるような感覚。

自然に私は「このままアメリカに残りたい」という気持ちが日に日に増していきました。

自由に発言しても「生意気な女」と言われず、むしろ賞賛されるアメリカの文化。
親子は別の人格、自由に生きて良いと言ってくれるアメリカ。

親から離れたいというと「生んでくれた親なのに」と言われてしまう日本。

私にとって、アメリカは「生きやすい」国だったのです。
(今では、アメリカが抱える問題も理解しているけれど)

そして、私も彼もお互いに特別な存在になっていて、
結婚しよう、そう誓ったのでした。

若すぎる二人なのに彼の両親は心から祝福してくれ、
「あなたたちが決めたことなら、祝福するわ」と彼のお母さんは私を抱きしめてくれ
嬉しそうに近所に「息子のフィアンセよ」と紹介してくれたときは本当に嬉しかったです。

「わたし」という存在がかき消されるような感覚の日本での暮らし。
「靖子」というアイデンティティを取り戻してくれたアメリカの家族。

私は「この人たちの家族になりたい」。

そう思いました。

ところが、帰国して両親に結婚したい、という話を伝えると、
父は烈火のごとく怒りました。

「何が結婚だ!学生のくせして!そんなくだらない恋愛させるためにアメリカに行かせたわけじゃない!」

じゃあ、大学を卒業したらアメリカに行くというと

「アメリカ人と結婚するなら、親子の縁を切ってくれ。二度とこの家の敷居をまたぐな」

そう言われました。
(父は幼少期に満州に渡り、中国残留孤児になりかねない状況で日本に帰国した人でした。外国人と結婚することが、そんな父にとっては永遠の別れと感じたのかもしれません)

貯金なんてゼロ。
英語は喋れるようになったものの、アメリカで働けるスキルなんて何もない。
彼はまだ、年下の学生。
私が卒業しても、働いてアメリカで生活するなんてできる自信がない。

お金で苦労して離婚ということになっても帰る場所がないなら、
絶対に失敗はできない。

それに、私はオノヨーコのように自由でチャーミングでかっこいい女になりたかったんだ。

だから、日本にすべてを捨ててアメリカに渡ってまでマクドナルドで働くというのは避けたかった。
そんな気持ちが交錯して、毎日毎日、「どうしたら渡米できるか」ということばかり考えていました。

そして、私が彼に出した答えは、

「まずは日本で働いて、キャリアとスキルを得る。結婚は27歳くらいまで待って」

夏に彼に再会し、マウントレイニエ国立公園の大自然での中で、
星空の下で彼にそう伝えると、彼は茫然としました。

「もう、待つことはできないよ」

留学を終え私が去ったあとの彼の部屋は、
がらんと寂しく、私と会える日々だけを楽しみに生きていたと
後で彼の母から聞きました。

あと数年も待たなくてはいけないなんて、もう耐えられない、

そう言った彼は、肩を落とし、何もしゃべらなくなったのです。

夏の間、私は「一緒にいるのに孤独」という気持ちになり、
日中は家族全員それぞれ仕事や学校に行き、

ひとり残された私は、気分転換にどこかに出かける足もない。

黙りこんで何も喋らなくなってしまった彼と、喧嘩が絶えなくなり、
笑顔が消えていきました。

すべてはアメリカ移住に私は夢を託していたので、
彼と別れることになったときは、「絶望」という言葉以外何も見つからなかったです。

その後、彼には新しい彼女ができたと風の噂がで聞き、
その女の子は、「ピアノがプロ並みに上手い」ということでした。

そのとき、
「私は、なんて空っぽなんだろう。何も誇れるものがない」
そう、思いました。

そして、
「もし私にアメリカで生き抜くスキルと経済力があったなら」
「もし、自由な人生を送れる環境だったなら」

空っぽの自分が悔しくて、悲しくて、毎日泣いていました。

新たな挑戦

渡米の夢は絶たれ、人生のベクトルをリセットせざるをえなくなりました。

彼とは別れてしまったけれど、私は「自分軸で生きる方法」を留学で得ました。
知らない土地で新しい文化や環境で過ごすことは、私に無限の可能性を感じさせてくれました。

世界中を自由に飛び回って仕事がしてみたい。
そんな新たな目標を見つけました。

就職先は、大手上場企業の一般職の内定をもらっていましたが、10月になって返上。
理由は「一般職にいったところで、自由に生きるスキルもお金も手に入れられない」と思ったからです。

就職活動を再開し、都内の編集出版会社に内定が決まりました。

当時、まだインターネット黎明期で、今のようにホームページを持っている会社はごく僅か、という時代でしたが「手に職」をつければ何かを得られるだろうと思い、毎日スキルを吸収していきました。

自分の担当でもないのに、DTP課(デスクトップパブリッシング。PCによる出版用編集)に頼み込んで仕事を分けてもらい、こっそりDTPのスキルを覚えました。
昼休みにはタイピングの練習をして、英語の論文もブラインドタッチで速打できるように。
英語ができたので、通訳や翻訳の仕事も嬉々としてやっていました。

でも、激務が続いたある日、
私の身体は悲鳴を上げて、とうとう倒れ、7年務めた会社を退職しました。

脚本家をめざすも、挫折。

それからしばらくして、「会社いくのやだ」という想いが強くなり転職はせず。

根っからのクリエイティブ志向の人間で、
これを機に「何者かになってやろう」と、脚本家をめざして、西條道彦先生というドラマ脚本作家の元で修行する日々が始まりました。

プロットを書いて読んでいただくと「君、センスあると思うよ」と言っていただき、
しばらく没頭して脚本にのめり込んでいましたが、あることに気が付きました。

「コメディしか・・・書けない」

なぜか、シリアスな人間関係や家族ドラマは、どうしても書けないのです。

どんなストーリーも、笑いを誘うコメディになってしまう。
書くプロットは「すごく面白い!」と言ってもらえるのに、いざ脚本を書き始めると止まってしまうのです。

理由は、自分の育った家庭環境がシリアス過ぎて、創作としての脚本でも胸がえぐられるような思いになってしまうからでした。

どんなシリアスなものでも、コメディにすればスラスラかけるのですが、感動路線を書こうとすると手が止まる。

しかも小説と違って映像化されないと世の中に出ない脚本は続けるのが辛かった。

そのとき私は脚本家には向いていない、と諦めました。

転職

「収入より自由と時間」
好きなことができる時間と健康的なライフスタイルが絶対に必要。

そう決めていた私が次に選んだのは、「広報」という仕事。「残業はありません」というフレーズで決めました。

「Webサイトを作っていただきます」「英語ができる方」という条件に可能性を感じました。
同時に、「仕事でどうしても一人暮らしが必要」と言い訳をし、家を離れ都内に一人暮らしを始めました。

当時はまだWebサイト黎明期。ホームページビルダーというソフトを使い、テーブルレイアウトという古い手法でWebサイトを作っていました。

そんな時代からずっと、私はこの業界にいます。

就職した会社は、私にすべて任せてくれ「君の自由にやっていい」という環境でしたので、企画からイベント開催、広報、Web制作、パンフレット制作、看板やデザイン、ブランディングまですべて、夢中になって学び、取り組んでいきました。

美大進学は叶わなかったけれど、クリエイティブな仕事ができていることが嬉しく、
面白がって任せてくれる鷹揚な上司たちも仲間も、素晴らしい人たちでした。

英語で培った論理的表現、伝え方、ダイナミック・トーキング。
私がそれまで経験してきたことが仕事に生きました。

そうして、私は仕事を通して様々なスキルを手に入れていったのです。

読みたい本があれば会社に頼めば買ってもらえたし、勉強しながらお金がもらえて、実践できる場は最高に恵まれた環境だったと思います。

給料に満足できず副業開始

残業がなく、好きな仕事ができていて人間関係も良好。

仕事が終わって帰宅しても、都内だから家につくのは18時台。
帰宅してからジョギングに行ったり、自分のために特別な料理を作ってみたり、アートスクールに通ったり。

「時間があるというのは、こんなにも一日の過ごし方が変わるのか」

と痛感しました。
と同時に欲が出て(笑)、もっと稼ぎたいよね、と。

そして、自分のスキルの腕試しをしてみようと、単発の編集の仕事やWeb制作の仕事を副業で始めたんです。(会社規約では副業禁止ではありませんでした)

副業していることを知った上司から、
「社内でやってみるか?」と嬉しい提案があり、「アートデザインファーム」という私の事業を立ち上げることになったのです。

会社に売上の一部を事務利用料と会社の利益として納めるだけで、あとは自分の収益として得られるように交渉、面倒な確定申告はしないですむように税金諸々は会社でやってもらい、収益は給料に上乗せにしてもらえる、というかなり特殊かつ恵まれたパラレルキャリアがスタートしたのです。2003年のことでした。

事業をスタートすると、交渉、納期、責任はすべて自分です。
会社でやらせてもらえているけれど、事業は私のもの。
WEBやクリエイティブのことがわかる人は社内には誰もいないし、壁にぶち当たるたびに自分で仮説検証を立て、解決していく力もつきました。

中には悪質な顧客もいて、どんな人が問題を起こす顧客かという経験値から避けるべき基準ができたりもしました。

医療、教育、エステなど、約30業種にわたるクライアントのブランディング、Webマーケティング、SEOのWEB制作などを行い、
クライアントの間で「佐藤さんに頼むとGoogleの検索上位1ページに入る」と評判になり、営業一切なしのクチコミとWEBサイトからだけの注文で18年継続しました。

本業では海外の大学とも仕事をし、クリエイティブディレクターとなって企業の広報関連のクリエイティブ制作の総責任者として充実した日々を送っていました。

第二の挑戦

毎日、仕事は充実していましたが、気が付いたらもう40代。

このままでいいのか。
そんな疑問が沸いてきました。

毎日同じ電車に乗り会社に行く日々。
これを60歳の定年まで繰り返すのだろうか。

いいようもない恐怖というか、リスクのようなものを感じ、
「夢を叶えるなら、今しかない」

そう思いました。

私がやりたかったこと。

婚約者と別れたあの頃、胸に刻んだ自分との約束。
世界中を旅しながら仕事をするライフスタイルを手に入れたい。

その理想のライフスタイルを実現するには、「会社員」という働き方では叶わない。

そんな自然な流れで、「起業以外に答えはない」という結論に。

その頃、自動収益を目的に作った、あるプログラミング関連の情報サイトから毎月30万円から80万円の不労所得が入っていたので、
「期は熟した」のでした。

私にできること

佐藤靖子

起業するにあたり、私にできることは何か、真剣に向き合うことになりました。

私には、多くのスキルがあるので逆にそれが災いし、コンセプトメイキングに非常に苦労しました。

ケアラーとしての経験もあるから、そういう仕事もできるんじゃないか、とも思いましたが、
単純に「毎日ケアラーだった頃のことを思い出す人生は嫌だ」という気持ちが強くやめました。

でも、思ったんです。

「ケアラーを卒業し、ブランディングやマーケティングオートメーションで時間も場所にもとらわれない人生を、40代から起業した女が叶えたなんて愉快じゃない。誰かを勇気づけられるんじゃないか」と。

私はケアラーとして自分の半生を翻弄されて過ごしましたが、
そんな人生だったからこそ、自分で生きるスキルを身に着けようと思えたのだし、
世界中を飛び回って仕事ができる人になりたいという目標もできたのだろうと。

母はもう他界していますが、今は感謝しています。
大人になった今、母の深い孤独を理解できるようになりました。

今は、ビジネスの一部を自動化させていて、
コロナで海外にはまだ出られていませんが、沖縄と東京の2拠点ライフを満喫しながらPCだけで仕事をしています。

私の人生を大きく変えたアメリカ人の婚約者、彼の母、ルームメイトとは
のちにFacebookで繋がり、今でもときどきメッセージを送りあっています。
世界的なパンデミックが収束したら、彼らに会いにいくことが私の最大の関心事です。

PCさえあれば世界中どこでも仕事ができる環境は、
好きなときに、好きな場所で、好きな人たちに会いにいくことを可能にします。

どんな境遇、環境に生まれても、
人生は変えられる。
それを、自分の姿で示していきたい。

変えるのは、自分の覚悟と行動しかない、というのが私が出した結論。
自分の孤独や寂しさを誰かに埋めてもらおうと依存すると、
依存された人の人生は、理不尽で辛いものになってしまう。

だから「一人でも幸せ」「二人なら、もっと幸せ」
そんなメッセージを伝えていけるようになりたい。

そして、私がビジネスを通してやりたいのは
今、自由を感じられない環境にいる人も、きっと未来は変えられる。
変わりたいと一歩を踏み出し努力する人をサポートしたい。

私のスキルや経験で可能な「ブランディング×マーケティングオートメーション」で、
受講生ひとりひとりが自分の力で人生を切り開くお手伝いができるはず。

そしていつか
日本の子供たちにも、未来は無限の可能性があるということを伝えていくこと。
親であろうと、パートナーであろうと、自分以外の他人に人生をゆだねずに
自分の人生を他人と比べず、全部自分で決めて生きれば後悔はない、ということを伝えていきたいと思っています。

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